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 雲雀丘焼に関する考察 その2(第12回兵庫の焼物展)              


 

 2009年7月13日国内食品最大手のキリンホールディングスと同2位のサントリーホールディングスが経営統合に向け交渉に入ったというニュースが流れた。
そのサントリーの創業者鳥井信治郎が、サントリーの前身「寿屋」から名前を取り、開いたのが寿山窯である。(自身も号を寿山、寿山人と称していた。)
統合によってサントリーの名前がなくなれば、その前身の寿屋も、いよいよもって忘れ去られていくのだろうな、と感慨にふけっていたのだが、 ホームページを見たお客さまから雲雀丘焼を大量に売却して頂き、色々と新しく分かって来た事もあり、雲雀ヶ丘焼に関する考察は、平成17年に1度やっているのだが、再度催す事にした。

サントリーの社史には、創業者の鳥井信治郎が、自宅に窯をもつほど陶芸に趣味を持ち、自ら陶号を「寿山」と称したことや、寿山人銘入りの皿・自宅で陶芸を楽しむ鳥井信治郎とクニ夫人の写真などが掲載されている。
功なり名をなした企業家たちは、書や俳句、絵画、陶芸と、趣味人としても一流の人物が多かったように思う。
現在の社長・会長は、上場企業になるとあくまでサラリーマンだが、サントリーは非上場でその上、親族経営と言う風土もあり、鳥井信治郎は利益三分主義を唱え、企業は社会の一員であり、社会とともにある。
だから事業で得た利益は会社や株主、社員のために使うだけでなく、3分の1は社会に御返ししようと考えた。
また、二代目社長となった佐治敬三は、サントリー美術館、サントリーミュージアム、サントリー音楽財団、そしてサントリーホールなどを次々と設立した。

 西晴雲が、どんぐり会なる俳画会を主宰していて、その同人の海軍少将・武田維幸(号・大州)なる人物が、寿山窯で文字皿を焼いている。(昭和15年、「サントリーオールド」を製造するが、これは市場には出なかった。太平洋戦争の始まる前年で、ウイスキーは海軍への軍納品になった。佐治敬三が海軍出身と海軍との結びつきが深い。)
どんぐり会は阪急で展示会もしているが、阪急に問い合わせたところ、資料は残ってないとのこと、駐日連合軍総司令部の高級幕僚等も来窯して、晴雲の指導で絵付けを楽しみ、作品をアメリカに持ち帰っている。
また最近、佐治オランダなる品が、佐治敬三の焼かせた焼き物であると聞き、オランダ写しの菓子器を入手したが、どうもガセだったみたいである。引き続き調べてみるつもりだ。 


     

 赤膚焼香柏窯の楽斎氏の御厚意により、西晴雲画集(昭和51年発行・西晴雲画集刊行会編集・島根県立博物館監修・西村サク発行)をお借りできました。その年賦からの抜き出しを以下に記します。

昭和15年  1才 8月7日島根県太田市にて、西村幸七の三男として西晴雲生まれる。本名西村和作。
大正11年 41才 北陸地方を訪れ、九谷焼の窯元において染付上絵の作品を多く残す。
昭和12年 56才 徳富蘇峰のすすめにより、毎日新聞社社長奥野信太郎氏等の後援で、東京高島屋にて帰国第一回展、開催、後援会結成される。
昭和13年 57才 後援会小林一三の勧めで、大阪大丸百貨店にて帰国第二回展を開催し、大阪での後援会が結成される。この時、鳥井信治郎が後援会会長となり、その知遇を得る。
昭和16年 60才 第二次世界大戦の勃発により日本との間を往復することが多くなり、後援会の鳥井信治郎の勧めもあって、鳥井邸のアトリエでの執筆生活も次第に多くなった。
昭和19年 63才 妻を川西市に転住させて中国との間を往復した。
昭和20年 64才 第二次世界大戦の終結により、中国を引き揚げた晴雲は、川西市の家族のもとに身を寄せた。
鳥井信治郎が邸内の「寿山窯」を整備して招聘を受けたので、陶磁器の染付、上絵および書画の執筆生活に入った。
晴雲は、鳥井信治郎の厚誼に誠心報いるため、生涯アトリエ寿山荘において筆を執った。
昭和21年 65才 駐日連合軍総司令部の高級幕僚等が、サントリーを訪れては、鳥井邸の「寿山窯」において、晴雲の指導で絵付けを楽しみ、多くの作品をアメリカに持ち帰った。
昭和28年 72才 第二次世界大戦のため、一時途絶えていた「団栗会」や「つれづれ会」を復活させて、指導をするとともに、弟子の育成に努めた。
昭和34年 78才 有田、唐津、萩、久谷、赤膚、法勝寺の各窯場を歴訪しては、染付、上絵の執筆に最後まで取り組んだ。とくに萩焼の深川の窯場では、12代坂倉新兵衛、12代田原陶兵衛との多くの合作品を発表した。
昭和37年 81才 2月10日鳥井信治郎逝去
西晴雲美術館建設に着手、12月落成。
昭和38年 82才 晴雲は美術館に起居して、4月の開館に備え、準備に取り組むが4月25日逝去。

西晴雲が執筆したアトリエ 寿山荘・川西市鳥井信治郎邸 佳月荘・笠岡市安田信次郎邸 蓬莱荘・宝塚市蓬莱峡蓬莱荘 松島荘・田辺市白浜温泉松島荘 白鶴荘・太田市久手町自宅 碧荘・川西市寺畑2番地自宅 上海碧荘・上海市赫司而路(白鶴荘) 北京南山画舎・北京市白頭台南山堂)

 以上の年賦から、雲雀ヶ丘焼の創始は昭和20年からで、それまでにも鳥井会長が自身の作品を作っていたようだ。
年賦の大正11年頃に、九谷焼の窯元において染付上絵の作品を多く残すとあり、昭和34年の頃には有田、唐津、萩、久谷、赤膚(赤膚焼香柏窯では棟方志功をはじめ、宮本三郎、管楯彦、矢野橋村、西晴雲、鍋井克之、斉藤与里、山下繁雄等も来窯していたようである。)法勝寺の各釜場を歴訪しては、染付、上絵の執筆に最後まで取り組んだとあるが、島根出身の甥の西村某(昭和2年生まれ)を高校卒業と同時に、赤膚焼香柏窯に、職人として雇ってもらったようで、赤膚焼との関係は少なくとも昭和20年以前にさかのぼるものと思われる。
大正11年以後、あちこち渡り歩いたのであろう。雲雀丘焼の最後は年賦の昭和20年の頃に、晴雲は鳥井信治郎の厚誼に誠心報いるため、生涯アトリエ寿山荘において筆を執った、とあることから、昭和37年鳥井信治郎逝去まで続いたと思われる。

 どのような作家が来窯したのか、絵付だけでなく、焼物も自窯で焼いていたのか、販売もしていたのか等、分からないことが多々あります。皆様のご教示をお待ちしております。


 この度の考察にあたっては、赤膚焼の尾西楽斎氏、琴浦焼の和田桐山氏のお話を伺えたことをここで謝意を表したい。

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