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 琴浦焼・打出焼に関する考察(第13回兵庫の焼物展)
 
琴浦焼
          琴浦焼の創始は、和田九十郎正隆(安政5年1月25日生)兵庫県学務課に奉職中、淡路志築における陶器学校建設に参画したるも実現せず官を辞し、 明治34年、兵庫県武庫郡中村に楽窯を築いたのがその前身で、1910年九十郎二男、和田正兄(初代桐山)が尼崎市東桜木町に移窯し、白砂青松の美しい磯部であった尼崎の古名「琴の浦」という地名にちなみ「琴浦窯」と称し、陶号を「桐山」と号したのが始まりで大正12年には五室の連房式登り窯を築窯している。

昭和21年、五室の連房式登り窯廃窯、平成12年8月にはそのレンガの一部を用いて八ヶ岳南麓の山梨県大泉村大泉窯開窯、構造は前後各一室の穴窯及び登り窯の併用窯で、窯名の「大泉窯」は裏千家第十五代鵬雲斎命名、この窯より出る作品には箱に「大泉窯」の書き入れがある。

現在の尼崎の状況を考えると(宅地化や、土の採取など)、納得のいく作品作りの為には移転は仕方のない事ではあるが、ちょっとさみしい気がします。
四代100年続いてきたのには、このような陶芸に対する真摯な取り組みがあったからなのでしょう。
和田桐山さんの話の中には、北大路魯山人に職人さんが引き抜かれた事や清水光照がパトロンと来て、自分で書いた物を一窯焼いて帰ったこともあるそうです。
 



★當南水翁・初周忌応需造之
昭和10年、生田南水の初周忌に求められて作ったもので南水の絵を基にしたものでしょうか。
配り物としての注文だとすれば、さすが南水と言いたいところです。
また、生田花朝女が吉向焼に嫁いだことを考えると嫁ぐ前だったのか?

生田南水(1859-1934)
国学者で俳人。大阪生。
名は宜人、通称を福太郎、字は子達、別号を夜雨荘・々居・百済・鹿鳴草舎、得田南齢門等。
漢学を伊藤如石に、国学・和歌を岩崎長世・平尾寛正・渡忠秋に、篆刻を熊谷厳毅に学び、書画に秀でた。
生田花朝女は、その息女。

★昌隆社五十周年記念・大正乙丑(14年)

同社は明治・大正時代 に大阪の財閥関係者の間で親しまれた「昌隆社煎茶会」の50周年記念の煎茶器です。
「大阪美術倶楽部」が80年ぶりに復活させたそうです。
★琴浦窯にて

どなたが焼いたのか解りませんが、桐山窯も打出焼と同様色々な人が焼きに来ていたようです。



打出焼
          打出焼の創始は斉藤幾太がその特有の粘りや土質の良さに着目して和田九十郎正隆や京都の陶工を招いて御庭焼の窯を築いたのが前身で、明治42年(1909)には中川砂村指導のもと阪口庄蔵が打出春日町7(旧打出村字古敷23)の打出丘陵に登り窯を築いて独立、打出焼と称したのが始まりとされている。

作風は京焼系で阪口砂山(庄蔵)が手掛け、花入・菓子器・茶陶など、幅広く焼いている。
昭和12年阪口庄蔵死去にあたって阪口淳が二代目砂山を継ぎ、「陶芸趣味の会」を主催したりして昭和30年代までは阪神間の多くの人が参加した。
生徒も広く募集していたとの事で現在の陶芸家と同様の試みを始めていた様である。
しかし、窯場の周囲で宅地化が進み、陶土の採取も困難になり地元の土以外に、伊賀、信楽、京都等からも土を取り寄せるなどしたが、昭和30年代後半からはその経営はおもわしくなかった様である。

昭和40年頃から製作を中止し病養に努め、打出焼は二代でその幕を閉じ、昭和48年春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出窯も取り壊される。
その後、阪口淳は昭和53年6月逝去した。

阪口淳の次男の坂口孝は昭和23年京都市工業研究所に勤務すると共に、楠部弥弌氏に師事し、度々、日展入選を果たすなど父と同じ道を進んでいたにもかかわらず打出焼三代目は継がなかった。
また、1933年7月与謝野鉄幹・晶子が、京都・四国・堺などの歌人と共に打出焼を訪ね、一同が歌の批評を行った後、打出焼の素焼きに与謝野夫妻が歌を記すという企画が催され、与謝野夫妻の書いたお皿が来会者への贈り物となった。

★壱萬号記念の為延元の昔大楠公奮戦の旧跡土を以て作??丑晩秋
神戸新聞社進藤信義(大正14年)

神戸新聞の1万号を記念して神戸新聞社社長進藤信義が作ったか作らせたかした茶碗、大楠公奮戦の旧跡土を以て作るとあって、大楠公ゆかりの菊水にちなんだ菊水の図の茶です。
当時は実業家たちがこぞって焼き物をたしなんだ様で一種のステータスだったのかも。


進藤信義(1878−1951)
東京専門学校(現早大)にまなび、「神戸新聞」「大阪毎日新聞」の経済記者をへて明治42年主幹として神戸新聞社に再入社。1924年二代目社長となる。
「京都日日新聞」「大阪時事新報」買収するなど同紙を地方紙の雄にそだてあげたが、その自由主義的立場が特高ににらまれ、昭和16年退陣。


★銘・一喝・南陽・花押
西宮海清寺住職、春見文勝の作品で前住職南天棒にちなんで、南天の文字と南天の絵を描いたのでしょうか。
西宮海清寺住職、春見文勝は、打出窯と結びつきが深かったのかよく目にします。

春見文勝(1905−1998)
岐阜県出身 西宮海清寺住職となり、のち僧堂を再開。
平成2年より6年まで妙心寺派二十七代管長を務める。
道号を無覚、室号は楠隠室・大楠窟・自春海など。

中原南天棒(1839−1925)
臨済宗の僧。諱は全忠、号は白崖窟。
天保10年肥前国に生まれる。
12歳のとき平戸雄香寺の麗宗のもとで得度。久留米梅林寺の羅山元磨に嗣法。南天でつくった棒を提げて遍遊し、
25の碩匠の門庭を勘過したことから南天棒と称する。
山口県大成寺、宮城県瑞巌寺、兵庫県海清寺に禅風を挙揚した。会下に乃木希典将軍らもいた。















琴浦焼と打出焼
和田正兄の作品の栞と斉藤幾太について書かれた貴重な文献があるので、ここに抜き書きします。
≪和田正兄の作品の栞≫
          先考翁草園正隆性陶を好み明治34年創て窯を西宮の邊辺に築き各種の陶を製し苦心數年に及んで不幸志を遂ずして逝く 不肖その遺志を継いで明治43年再び尼崎に築窯し桐山と称して専ら楽焼を製し 更に大正12年陶磁器窯を築き當地の古名に因み琴浦焼と稱へ漸く 青華磁其他諸釉の陶磁を製するに至る江湖諸彦の御指導により浪花附近唯一の陶窯として将来益々其成熟を期し度く御贔屓御用命賜らん事を希ふ
琴浦焼窯元 翁草園 和田桐山識 尼崎市寺町

≪芦屋市市政要覧「芦屋の二巨人」斉藤幾太氏〜白洲文平氏 生田沙隅≫

 明治10年の昔西南役に軍需の充足を計るために藤田組が偽札を発行したことがその頃の政治上社会上の重大問題となり、藤田組の興廃にも関わる大事件でもあった。
それを中野悟一氏が身を捧げて単身自分の責任として引被り、中ノ島の自邸で鉄砲腹をして贖罪したので、藤田傳三郎氏は中野氏の此犠牲的義挙を徳とし、氏には男の後嗣がないので田村一郎久原房之助の長兄に当る幾太氏を迎えて中野の後を継がしめ本姓の齋藤を名乗る事になった。

幾太氏は躯にして上下に長髯を蓄え偉容あり、陽明学を信奉知行合一の実践者で頗る厳格な人格者であったが、当時の藤田組の社員共は氏の下に在って勤務するのを大に窮屈がって兎角社務がスムーズに運営出来ないので、惜い人材ではあるが到頭若隠居させることに決し、近くに置くと社に来て彼是と口を挟む恐れがあるので、少し交通の不便な地に置こうというので、省線西宮駅から十数町も距つた山打出に地を相し、広大なる地所を求めて平屋建ての家を建ててそこに居住せしめることにした。

氏は打出の屋敷に悠々自適の生活を営み、毎朝乗馬で付近を散策するのを常とし、村の不就学児童を集めて自宅に夜学校を開き、来ぬ者があると人を派して迎えにやり、始終物を与えて学問を奨励し、また村の貧窮者には毎月米を与えて補給してやったから村民は氏を稱して打出の殿様と呼称していた。

また、村政にも蔭に在って力を尽くし、氏と村との連絡には主として杉岡氏が当り家の方は阪口氏が番頭としてさ支配して居った。氏は俳句を好み、京都の花ノ本聴秋宗匠を師とし、大家の域に入って居た。
毎月句会を家で催し、邸を紫水庵と稱し砂明と号し、自ら撰者となった。
会は双葉会と名づけ、杉岡氏、阪口氏、中川氏、武庫郡長内海氏、西宮の鉄道長官某氏等、十数名がいつも参会して居った。
阪口氏の砂山、中川氏の砂村などは何れも齋藤氏雅号の頭字を採って、氏が命じたのである。

茶道にも造詣深く、夫人の茶の指南に中川氏を聘し、釜日には大阪から通うて来られ、茶会も時々催して、藤田氏、田村氏、久原氏等が何日も来席せられた。
中川氏は大に齋藤氏の知遇と信認を得て、後邸宅の改築に当りて終に同家に寄寓して工事の設計から監督資材の購入まで担当し、とうとう4年の歳月を費やして間数廿数室建坪二百坪余の邸を竣工せしめた。
亦製陶もやって居り、京都の某陶工和田桐山氏の先代が指導し、坂口氏が専ら其事に
当って居った後、窯を坂口氏に譲り、中川氏が指導して打出焼を創成し、種々の名品を焼成した。

比様に各方面に其才を展べて一面自の趣味を充足すると共に公益を計られたが、晩年強度の神経痛を疾み、療養のため伊豆の伊東に移ることとなり、家を寺田甚吉氏に譲り、八十余才を以て物故せられた。

琴浦焼と打出焼関連年表

写真
桐山焼
1頁
桐山焼陶印
1頁

2頁
打出焼
1頁

2頁

3頁

4頁

5頁

6頁

7頁

8頁

9頁
箱書
1頁
作者
1頁

2頁



 <資料に基づく妄想>
          和田九十郎正隆は兵庫県学務課に奉職中、淡路志築における陶器学校建設に参画したるも実現せず退職。
窯業に対する思いが断ち切れず、その時に知り合った斉藤幾太に、当時財界人にとっては一種のステータスとなっていた御庭焼の話を持ちかけ、打出近辺の土の特有の粘りや土質の良さや、将来当地の貴重な物産となる事等を説いて、打出焼の創始となる斉藤幾太の御庭窯を京都の陶工と共に指導し、齋藤家番頭の阪口庄蔵と共に明治25年頃、開窯する。(和田九十郎正隆が参画した陶器学校建設は、明治30年に実現する。)

そこで研鑽を積み、明治34年和田九十郎正隆は、ようやく兵庫県武庫郡中村に念願の楽焼窯を築き独立するが苦心数年後に死去する。(和田正兄の作品の栞に先考翁草園正隆苦心數年に及んで不幸志を遂ずして逝くとある。)

その息子の和田正兄(当時17才?)は父の死後打出焼で修業する。(前述の栞に不肖、その遺志を継いで明治43年再び尼崎に築窯しとある事から、兵庫県武庫郡中村の楽焼窯は父の死と共に廃窯になったのでは?)
明治42年、中川砂村(誰?)指導のもと阪口庄蔵が打出春日町7(旧打出村字古敷23)の打出丘陵に八段からなる本窯と、一つの素焼窯、一つは飛びぬけて大きな焼成室を持つ登り窯を築いて打出焼と称して独立する。

打出窯で修業を積んだ和田正兄は明治43年父の遺志を継いで尼崎市東桜木町に楽焼窯を作り、「琴浦窯」と称し、陶号を「桐山」と号す。
後弟の和田正治も作陶に従事する。

大正12年迄の間、千瓢軒桐山の印で吉向焼系の楽焼を造る等、茶道具系統の焼き物を専門にする様になる。
大正3年、阪口庄蔵は、斉藤幾太の後援のもと合資会社打出焼陶器工場設立する。
大正7年、大毎新聞に西海寺住職南天棒が、斉藤幾太が打出焼で作った棺桶に入って生前葬を営んだとある事から独立したとは言え、斉藤幾太の庇護下に在った様である。

また、斉藤幾太の交友関係や坂口砂山の名が俳人の雅号を使っているので解るように俳人としての交友関係の多さを生かして、今では当たり前のカルチャース
クールの様な経営展開を試みている。
大正12年、和田正兄五室の連房式登り、窯を築窯する。
坂口庄蔵死去。阪口淳二代目砂山を継承する。
昭和の初めから戦前までは琴浦窯・打出窯共に現在出てくる品物の質量を見ると全盛を極めた様である。
昭和21年、琴浦窯、五室の連房式登り窯廃窯する。
両窯共宅地化が進み、土の採取や煙害の問題などでつらい時期を過ごすことになる。
昭和40年、阪口淳は製作を中止し、病養に努めるため、打出窯閉窯。
阪口淳の次男の坂口孝は昭和23年、京都市工業研究所に勤務すると共に、楠部弥弌氏に師事し、度々、日展入選を果たすなど父と同じ道を進んでいたにもかかわらず、古めかしい職人的な世界から脱し、純粋芸術理論の上に立脚した美と科学の追及をしてみたいと打出焼三代目は継がなかった。(経済的な問題も大きかったと思う。)
昭和48年、春日町が土地区画整理事業の対象になり打出窯も取り壊される。ここに斉藤幾太から始まった打出焼は完全に幕を閉じることになる。

一方、琴浦焼は平成8年和田正明が四代和田桐山を襲名し、平成12年には昭和21年廃窯のレンガの一部を用いて、八ヶ岳南麓の山梨県大泉村に大泉窯開窯する。
構造は前後各一室の穴窯及び登り窯の併用窯で、窯名の「大泉窯」は裏千家第十五代鵬雲斎命名による。ほとんどの窯が分業体制の作品造りをする中一貫して個人の作品造りに取り組んでいる。喜ばしい事に長男の和田泰明も作陶に参加している。


今後の課題は

琴浦焼
和田九十郎正隆の兵庫県武庫郡中村の楽焼窯期・和田正兄の尼崎市東桜木町の楽焼窯期・大正12年からの五室の連房式登り窯期・昭和21年からの平成12年迄・平成12年からの大泉窯期

打出焼
斉藤幾太の御庭窯期・打出春日町7(旧打出村字古敷23)の登り、窯期・大正3年からの合資会社打出焼陶器工場期・昭和12年からの二代目砂山期
何代目の作品なのか、どの時期のどの窯の作品なのか、記年入り作品の整理、印銘・箱書の特定を急ぎます。
打出焼で瓦も焼いていたとの説もあるが検証が必要である。


最後に今回の考察にあたり、忙しいなか貴重な時間を割いていただき、数々の資料を提供して下さった和田正明氏・和田泰明氏・藤川祐作氏・坂口吉男氏・三浦逸郎氏にこの場を借りて、謝意を表したいと思います。


参考資料文献一覧
「日本古陶銘款集」陶器全集刊行會編/昭和15年発行
「昭和陶芸図鑑」黒田領治著/昭和54年発行
「打出焼藤川祐作コレクション」藤川祐作著/1994年発行
「芦屋市市政要覧」芦屋市広報課編/生田沙隅著/昭和25年発行
「兵庫のやきもの」青木重雄著/1993年発行
「芦屋市史本編」芦屋市教育委員会編/昭和31年発行
「打出史話」天王寺谷勘大夫著/昭和15年発行
「芦屋の生活文化史」芦屋市教育委員会編/昭和54年発行
「the sight-seeing asiya」 昭和30年発行
「深江生活文化資料館だより」第6・37・38号/藤川祐作著/1984・2009・2010年発行
「のじぎく文化サロンだより」41・50号/白谷朋世著/1995・1996年発行
「陶説」日本陶磁協会編・藤川祐作著/平成18年発行


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