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【琴浦焼・打出焼関連年表】
1858 安政5 和田九十郎正隆生まれる
1862 文久2 嘉納治兵衛生まれる白鶴美術館創立者
明治中頃 齋藤幾太が和田九十郎正隆を招き開窯
1887 明治20 和田正兄生まれる
1897 明治30 和田正治生まれる
十月一日津名郡立陶器学校志筑に開校
1901 明治34 和田九十郎正隆兵庫県武庫郡中村に窯を築く楽焼窯
中山多吉中山玄心生まれる
1904 明治37年頃 和田九十郎正隆死去
1909 明治42 中川砂村指導のもと阪口庄蔵、打出春日町7旧打出村字古敷23の打出丘陵に登り窯を築く
1910 明治43 和田正兄は尼崎市東桜木町に移窯し、「琴浦窯」と称し、陶号を「桐山」と号す陶器窯
1912 明治45 和田春雄生まれる
1914 大正3 合資会社打出焼陶器工場設立
1915 大正4 5月23日付西摂新報・八段からなる本窯と1つの素焼窯が有り、1つは飛びぬけて大きな焼成室となって居り、6,7台の轆轤が有り、一窯の焼成時間は40時間とある
1917 大正6 中山多吉15才、淡路製陶入社
1918 大正7 大毎新聞・西海寺住職南天棒が、斉藤幾太が打出焼で作った棺桶に入って生前葬を営んだ
1920 大正9 中山多吉、日本陶器にて修業
1922 大正11 中山多吉打出窯にて修業
1923 大正12 和田正兄五室の連房式登り窯を築窯する
1925 大正14 中山多吉打出窯から、淡路製陶に戻る
桐山窯、一時白鶴美術館の創立者鶴翁の援助を受ける
1933 昭和8 与謝野鉄幹・晶子が、歌人と共に打出焼を訪ね一同が歌の批評を行った後、打出焼の素焼きに与謝野夫妻が歌を記すという企画が催され、そのお皿が来会者への贈り物となった
1937 昭和12 阪口庄蔵死去 阪口淳二代目砂山を継承
1946 昭和21 琴浦窯、五室の連房式登り窯廃窯
1947 昭和22 和田正明、兵庫県尼崎市に三代桐山長男として生まれる
桐山窯、北大路魯山人に職人山越幸次郎を引き抜かれる
1949 昭和24 市広報「あしや」海を渡る打出焼と紹介され、将来打出焼がアメリカ、ヨーロッパに船出する日も近いと紹介される
1951 昭和26 嘉納治兵衛没
1952 昭和27 中山多吉、青陶園開窯
1965頃 昭和40 阪口淳製作を中止し、病養に努める 打出窯閉窯
1967 昭和42 和田正兄死去
1972 昭和47 和田正明25才琴浦窯にて作陶を開始
1973 昭和48 春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出窯も取り壊される
1978 昭和53 阪口淳死去
1996 平成8 和田正明49才四代 和田桐山襲名
2000 平成12 和田正明53才八ヶ岳南麓の山梨県大泉村に大泉窯開窯


和田九十郎正隆(1858〜) 兵庫県学務課に奉職中、淡路志築における陶器学校建設に参画したるも実現せず、官を辞し、明治34年、兵庫県武庫郡中村に楽窯を築く
和田正兄(1887〜1967) 初代桐山・九十郎正隆の次男・五室の連房式登り窯を築窯する
和田正治(1897〜) 二代桐山・初代桐山の弟・兄と共に作陶に従事
和田春雄(1912〜) 三代桐山・初代桐山の娘の婿養子・日本画を牛尾桃里に学ぶ
和田正明(1947〜) 四代桐山・三代桐山の長男・日本画を牛尾桃里に学ぶ
二代三代のもとで作陶
和田泰明(1974〜) 四代桐山の長男
七代嘉納治兵衛(鶴翁)(1862〜1951)  
山越幸次郎 山窯陶工・北大路魯山人に引き抜かれる
齋藤幾太 久原房之助の長兄・藤田組の社員と上手くいかず、若隠居させられる
阪口庄蔵(〜1937) 初代砂山・齋藤幾太の番頭
阪口淳(〜1978) 二代砂山
阪口孝 阪口淳の次男
中山多吉(1901〜) 青陶園開窯
与謝野鉄幹(1873〜1935) 歌人/本名は寛/鉄幹は号/与謝野晶子の夫
後に、慶應義塾大学教授 文化学院学監
与謝野晶子(1878〜1942) 歌人/作家/思想家
歌集『みだれ髪』明治34年(1901年)
中川砂村 齋藤幾太夫人のお茶の師匠、齋藤幾多邸に寄寓して改築工事の設計から監督資材の購入まで担当する
生田 沙隅  


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